話にならない 別れは無間地獄からの解放

話にならない。

こんな経験はだれであってもあるんじゃないだろうか。
程度の差はあれいつもコミュニケーションをとっている相手が自分と同じ波長で話してくれるとは限らない。不快な感覚を日常的に感じることも少ないかもしれない。

例えば、仕事でのミス、仕事上の方針の違い、これらは実害が身に降りかかってくるので
患者マネジメントにおいて患者さんが被害をこうむりそうなときは率先して同僚に『こうしてほしい』というタイプ。何度言っても相手の行動が変わらない場合は上司に報告して動いてもらうか相手の職務を自分が引き受けて患者のメリットを最大化させるようなことをよくやっていた。

ただ、会社のルールで患者が被害を被るような場面は科長なり部門や組織のトップが
考えを改めない限り未来の同じようなケースの患者が苦しむことになる。
それは組織人としてどうなの?という想いがいつもあった。

さて、話はプライベートな話。
ただ自分が許せない人というのは仕事であってもプライベートであっても同じなんだなと思う。

付き合っていた人や結婚していた時代には相手のことがいやになる局面が何度も訪れる。
例えば包丁を洗って乾かしているときに刃物を立てておいておく人がパートナーだったとする。

危ないから刃物は水滴をふき取るなどして早くしまってほしい。
→わかった。

何週間後かにも包丁が立てておいてある。前にも言ったよな。
再度危ないからやめて。
→わかったわかった。

何度言っても数か月後には同じ行動を相手がとる。
こういうことが自分には我慢できないのだ。
『ああ、この人と一緒に暮らすということはこの会話を未来永劫しなきゃいけないのか』
そう思うと自分は同じ空間にいるだけで苦しくなってくる。

対話にならない。構築できない。人生が無限だと思っている。何度人生を生きても失敗する。
年老いていくまで我慢が続く。それが自分のパートナーだと理解したら一緒にいる時間の無価値さが際立ってくる。一度しかない人生をなぜこの人と過ごさねばならないのか苦しくなる。

今までお別れしてきたパートナーたちに共通しているのは
自分と付き合ってくれた稀有な人たちだけど
『別に自分がパートナーじゃなくても良くね?』だった。

楽しい時間を過ごすだけではこのあたりのことは分からないものだ。
恋に落ちている時間には気づかないことだ。
生活を共にして初めてわかる。
自分の時間を大切にしている人こそが対話ができるのだろうと思っている。

相手を尊重できているのか分からない。
相手を尊重できていないかもしれない。
尊重できていないとしたら、自分にはどうしたらもうちょっと尊重できるのかな。
一種の気遣いなのかもしれない。この積み重ねが邂逅のパートナーになるのだろう。

中年も中年のどまんなか中年者としては浮ついた肉体関係に興味が無くなって
熟成にこそ魅力を感じるようになってきている。
パートナーに求める異性性と人間味のバランスが少しずつ変わってきた結果のような気もしている。

構築的な人間関係を求めるのは自分のエゴかもしれない。
相手がそうじゃないとイヤ、は自分と同じを求めていること。
同床異夢。他人同士。
しかしチームとして生きていくにはお互いの距離感にこそ気遣いが求められるのかもしれない。